防災・減災への指針 一人一話

2013年10月08日
災害対策本部の1カ月と避難所閉鎖までを振り返って
山王地区公民館長
佐藤 聖一さん

活かされなかった過去の災害体験と教訓

(聞き手)
これまで、他の災害を経験した事はございますか。また、その際の経験はどのように活かされましたか。

(佐藤様)
私は鶴ケ谷地区に住んでいます。私の家までは津波は来なかったのですが、丸山周辺まで側溝を伝ってきたというような話は聞いています。
宮城県沖地震の時は中央公民館におりまして、市職員として採用されてから2~3年目でした。
退庁時刻になり、帰ろうと思った矢先に地震があって、帰ることができなくなり、地震の被害状況の調査にあたりました。
また、8.5水害や9.22水害もありましたけれども、その時は水害の後の復旧に、特に関わりました。
東日本大震災の1年前の、2010年2月28日だったと思いますが、チリ地震に伴って津波警報が出たのですが、実際に来た津波は、大代あたりで50センチぐらいでした。
そういったこともあって、東日本大震災の際は、大津波警報といっても、みんなピンとこなかったのかなという気がします。
私自身も災害対策本部にいて、現地班とさまざまな連絡をしている時に、無線から「津波がきたー!」という大声が聞こえてきたのですが、まだ現実感を掴めずにいました。
その後、ラジオやテレビなどで何百人もの方々が亡くなっているという話を聞いて、大変なことが起きているという感覚が、現実のものとなってきたのです。
東日本大震災の約1 年前の津波が大事に至らなかったということもあり、油断していたのかもしれません。
過去の災害の教訓が活かされたかどうかということですが、私自身は、市の広報業務に携わっていた時に教えてもらったり、津波の影響で「鍋塚」という名前がついた場所があるということを教えてもらったりする程度でした。(笠神には船塚、箱塚、鍋塚の三塚がある。(中略)鍋塚には杉の木が一本あったが、津波の時この杉の木に鍋が引っかかっていたので鍋塚と唱える様になったという。「多賀城町誌」より)
それと、文化センターで勤務していた頃は、貞観の大地震を題材にした市民ミュージカルにも携わりましたが、単にそれを題材としただけで、教訓として取り入れたかというとそうではありませんでした。せっかくそういった題材を使ったのだったら、もう少し掘り下げてできればよかったのかなと思います。

避難所運営の管理

(聞き手)
発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(佐藤様)
発災当時は、こども福祉課の課長補佐をしており、本庁にいました。発災直後、災害対策本部に召集されました。
私は5人いた非常配備現地班ブロック長のうちの1人で、現地班である鶴ケ谷班と下馬班の情報収集を中心に行っていました。
地震が起きてからすぐに、現地班員である職員が現場に出動しましたので、無線で現場の情報収集をしていました。
また、30か所ぐらいあった避難所…例えばお寺、集会所、学校や病院などもありましたが、そのような避難所に配備された職員との連絡を取ったり、物品の手配などもしたりしていました。
災害対策本部詰めで、直接は被災された市民の方と関わる機会はなかったのですが、小さいお子さんがお母さんとはぐれたということで、災害対策本部に連れてこられて、みんなで世話をしたということがありました。その後、文化センターに避難していたお母さんに、無事引き渡しができた時、とても安堵したことを今でも覚えています。
震災の年の6月に、人事異動で教育委員会の生涯学習課に移りました。
生涯学習課は、仮設住宅が段階的に整備されていく中で、避難所の統廃合や最終的な閉鎖に至るまでの間、体育館や公民館などを管轄していたため、それらの維持管理という本来業務とともに、避難所といての管理運営という、二つの側面からの関わりを持っていました。
なお、こども福祉課に籍を置いていた時も、本来業務で、児童虐待やDV(ドメスティックバイオレンス)を担当していたため、避難所の中での対応が必要な場合は、直接、話を聞きに行ったこともありました。
避難所に避難していた妊婦さんが、間もなく産まれそうということで、搬送したこともありました。
避難所運営は、最初のうちは、職員が何日か交代で分担して行っていたのですが、応急対応が終わると、少しずつ被害調査をしなければならない段階に入り、それに伴い、復旧に向けた業務に、職員が携わらなければなりませんでした。ですので、少ない職員で、避難所担当のスタッフのやりくりをするのに大変苦労しました。
しばらくすると、他の市町村の職員が応援に来てくださったり、避難している方たちが自ら、ボランティアで活動するようになりましたので、スタッフ不足は解消されましたが、避難所運営に関わっていただいたスタッフの皆さんには、本当にご苦労をおかけしたと思います。

(聞き手)
先ほど津波について半信半疑というか、本当に来たのかと疑うようなところもあったというお話でしたが、実際、甚大な被害を受けているまちを自分の目でご覧になったのはいつ頃でしたか。

(佐藤様)
発災後から一週間ほど連続で、泊まり込みの対応を続けていたのですが、仮眠をとるために一度自宅に戻ったことがありました。
しかし、帰宅したのが夜の11時以降で、2時間程度で戻ってきましたから、真っ暗な状態の中では何も見ることができず、被害の状況を実際に見たのは1か月ぐらいしてからでした。
初めて、市内の様子を見た時は、もうがくぜんとしました。
家に帰ることができずにいて、外の景色がどんな状況なのかさえ、自分の目で見ることができずに、ただ無我夢中で過ごした一カ月でした。

避難所での食糧問題

(聞き手)
当時の対応で、大変だったことはありましたか。

(佐藤様)
避難所開設の初期は、やはり物資不足が深刻で、灯油やガソリンなどの物が足りず寒さで大分苦労をしたと思います。
また、水場やトイレといった水回りが大変汚いということで、そこを掃除していたスタッフは大変だったと思います。
食糧については、最初は、お菓子とか食パン1枚の半分とか、少し経ってからは、賞味期限ギリギリのおにぎりなどしか配給できない状況でしたが、そういった物でも、もらえるだけありがたいという感じでした。
後には、栄養のバランスをどう補うのかという問題もありましたが、食事に対する様々な要求に応えることは、本当に大変でした。
ただ、実際のところ、避難所によって差もありました。
特に西部地区では、農家の方も多いので、米はあるし、井戸もあるし、ガスもプロパンガスですし、本当に他の地区の避難所に比べたら、すごく良かったと思いますね。

避難所の統廃合と閉鎖まで

(聞き手)
避難所の統廃合、閉鎖までの流れを教えてください。

(佐藤様)
避難所も最初は30か所ぐらいでしたが、4月10日頃、つまり、発災から1か月ぐらい経って、学校を再開しなければならないということになり、とりあえず学校を避難所にしていたところは閉鎖して、山王地区公民館と総合体育館、文化センター、史遊館に集約しようということにしました。
その際、避難されている方々に対しては、できるだけ移動の不安を取り除くための個別相談を行いました。
最終的には、すべての避難所を平成23年9月30日で閉鎖することになりました。

(聞き手)
最後に避難所に残った方というのは、高齢の方が中心なのでしょうか。

(佐藤様)
そうとはいえません。若い方もいました。日中のお仕事が忙しく、避難所からの移動にまで手が回らなかったのだと思います。

マニュアルを超えた災害

(聞き手)
発災当時の対応では、防災計画やマニュアルは活かされましたか。

(佐藤様)
想定を超えた災害だったもので、マニュアルを見て、次はこうだというようなことはできなかったです。
マニュアルに沿えば、避難所では、入る際に名前を聞いて名簿を作らなければならないんです。
しかし、地震があった直後や津波が来た直後に、次々と避難してくる多数の方々を目の前にして、最初にすべきことは、名簿に名前を書かせることではなく、一刻も早く、室内に入って休んでもらうことだと思いました。その上で、津波で濡れた衣服を取り替えるなどの手配もしなければなりません。
実際、電気が切れて真っ暗な状況だったので、何人が来て何か所に避難したのかということさえつかめなかったと思います。
マニュアルを本当に超えた災害だったという気がします。

自助・共助の重要性

(聞き手)
ではそのあたりを踏まえた今後の問題・課題はどういったところにあるのでしょうか。

(佐藤様)
どうしても職員だけで対応できるものではないと思います。
地域や町内会単位で、きちんとしたマニュアルを作ってもらい、町内会で協力して、みんなを避難させたり、普段から声掛けをしてもらい、お年寄りの所在を把握してもらったりしながら、自分達で、まずは避難をしてもらうのが一番いいと思うのです。
今は町内会でもさまざまな活動を行っているところもありますし、あとは防災倉庫も各地区に置いて、地震に備えています。
今度、それらを使った市の総合防災訓練も行う予定なので、そういったことが地域で広がっていけば、自助・共助の動きが広がるのではないかと思います。

トランシーバーを使用した地区独自の情報収集訓練

(聞き手)
防災倉庫というのはどういうものでしょうか。

(佐藤様)
コンテナ車のコンテナ部分のようなものです。かなり大きな物で、行政区単位でさまざまな場所に設置して、中に発電機や防災用品を置いています。
先ほどお話した市の総合防災訓練が(平成25年)11月4日に予定されています。
私が住んでいる鶴ケ谷地区の町内会では、以前、宝くじ助成事業の助成を受けてトランシーバーを購入し、町内会の方に約30台配って、情報収集をする訓練をしています。
そういった訓練を、市の総合防災訓練と併せて実施しようということで、今、町内会で準備をしています。

震災を後世に伝える手だて

(聞き手)
震災経験の風化が懸念されていますが、震災の教訓などを伝えるためにはどうすればいいとお考えですか。

(佐藤様)
多賀城高校の生徒さんが、桜木などの電柱に、ここまで津波が来たという表示板を設置されているのですけれども、そういったことをさらに実施していかなければならないという気がします。
多賀城中学校の近くの道路には、8.5の水害の時にここまで水が来たというしるしがついているのですが、それを見るたびに「ああ、ここまで来たのだな」と思い出しますので、そのようにして「ここに津波が来たのだよ」ということを示すなどすれば、教訓として残るのではと思います。